アドレス |
南島原市(旧:南高来郡)南有馬町 |
PA:約20台/城内散策時間目安:約20分〜30分 |
別名 |
日暮城 |
築城年 |
享保3年(1718年) |
築城者 |
有馬貴純 |
歴代城主 |
有馬氏・松倉重政 |
城の種類 |
平山城 |
規模 |
周囲3km・面積:41万u |
遺構 |
石垣など |
櫓台石垣 |
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島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に埋め込まれた石垣張り出し部分であります。
この場所は、築城当時天守相当の重層の櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所であります。 |
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南有馬町教育委員会城内説明板より |
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池尻口門跡 |
この虎口(出入口)は、島原の乱後幕府の現地処理による徹底的な破壊により、石垣の築石やグリ石などで埋め尽くされ、さらに土を被せて隠されていました。
発掘調査で検出し、開口部は東西に開き約6m、奥行は南北に約12mで5段の階段を有する虎口であることがわかりました。
階段の平場部分に門柱の礎石があり、建築物としての門があったことがうかがえます。
この虎口は、本丸の裏門にあたり「池尻口」と明記してある絵図もあります。 |
南有馬町教育委員会城内説明板より |
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佐分利九之丞の碑 |
佐分利九之丞は、因幡藩(鳥取県)池田候の家臣で、島原の乱の時慰問使として左遣された人であります。
寛永15年(1638年)2月27日、幕府軍の総攻撃にあたり、九之丞は細川軍の先陣を承って進撃したが、本丸において遂に倒れました。
彼は刀を採り、傍らにあった自然石に己の姓名と年月を堀込んだものと伝えられその自然石がそのまま彼の墓碑となっています。
佐分利家は、彼の勇戦奮闘の功績により一千石の加増がありました。
「墓碑」と並んで建っている「副碑」は、九之丞の子孫である「軍平」という人が、祖先の霊を供養するため、口之津町玉峰寺の僧を招き建てられたものであるといわれています。 |
南有馬町教育委員会城内説明板より |
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空堀 |
この低地は、島原の乱の時に防衛のため構築されたもので、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。
寛永15年(1638年)2月21日の夜襲軍4000余人は、食料・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍などを襲撃したが、失敗に終わった。
籠城の間は、竹や木で柱をたて、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。 |
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現在の史跡 |
天草四郎時貞の墓碑 |
小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名益田四郎時貞といい、洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれています。
比較的恵まれた幼少時代をおくり、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。
一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により集結しました。
四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。
(墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものが、原城に移されています。) |
南有馬町教育委員会城内説明板より |
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ホネカミ地蔵 |
寛永15年(1638年)2月28日、島原の乱は終わりを告げた。
ホネカミ地蔵は、明和3年(1766年)7月15日、有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で倒れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。
八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげろ3万人も死んだげな小さな子供も居たろうに骨かみ地蔵に花あげろ」と、うたっています。
「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、その事から「自分自身のものにする」、更に「人々を済度する」(助ける、救う)と、理解すべきだと言われている。 |
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原城発掘 |
平成4年度(1992年)から実施した本丸地区の発掘調査により、多くの出土遺構・遺物がありました。
特に「島原の乱」にまつわる十字架・メダイ・ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物の出土は歴史的意義付けの上で貴重な研究資料であります。
他に火縄銃の鉛玉、輸入陶磁器、瓦など、原城築城当時から乱で封印されるまでの原城を物語る資料が出土しています。
出土遺物は、「原城文化センター」で展示しています。 |
城内説明板より |
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近辺の見所 |
有明の森フラワー公園・舞岳ふれあいロード・西望公園・白州・日野江城跡・鮎帰りの滝・キリシタン史跡公園・県立百花台公園・長浜海水浴場・すこやかランド・野井古城跡・千々石海岸・穴観音・古墳・小浜温泉・富津弁天公園・とけん山公園・樽湾マリンセンターなど |
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