Castle in Kyusyu
熊本
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宇土城
宇土城跡(市指定史跡)
天正16年(1588年)、小西行長は宇土・益城・八代・天草を拝領し、翌17年からこの地に新城を築き始めた。
また、支配体制を整える為に、領内の隈庄城(城南町)、木山城(益城町)、岩尾・愛藤寺城(矢部町)、麦島城(八代市)を支城とし、城代を置いた。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際し豊臣秀吉は行長と会談し、家臣の内藤如安は北京において明国との交渉にあたった。
慶長5年(1600年)行長は西軍に参加し、関ヶ原で戦った。
この時、加藤清正は宇土城を攻め、行長の弟隼人は城を死守していたが、行長処刑が知らされると開城した。
その後、肥後一円は加藤領となり、宇土城にも城代を置いた。
清正は、この城を隠居所とする為に普請を行ったが、慶長16年(1611年)に没し、翌17年幕府の命令により城は破却された。
また天草・島原の乱後、城は徹底的に壊され、正保3年(1646年)に宇土細川藩が成立したが築城は許されず陣屋を構えた為、以後城を築くことはなかった。
城は、東西550m、南北500m、面積200万uの規模を誇る。
本丸は高さ10数mの石垣を築き内堀を巡らす。
ほかに二ノ丸、三ノ丸などの郭を置き、外堀を巡らし、周囲の沼地と共に城の守りを堅固にしていた。
城跡からは、石垣・建物・門・井戸などが発掘され、瓦も大量に出土。
また本丸の地下2mにも城の遺構があり、焼けた建物跡からは、鉄砲玉や鎧などが、さらに下層からは、中世・古墳時代・弥生時代の土器が多量に出土している。
※旧城- 宇土城跡(西丘台)国指定史跡 
※陣屋- 新小路町(中央公民館付近) 
看板より
アドレス 宇土市古城町
別名 鶴の城
築城年 新城:天正17年(1589年)
築城者 小西行長
歴代城主 小西行長・加藤清正
城の種類 平山城
遺構 石垣
宇土城跡(城山)の石垣
宇土城(城山)は天正16年(1588年)に肥後南半国(宇土・益城・八代の三郡)の領土となった小西行長が、翌年の天正17年(1589年)から築城したと言われています。
この城は小西行長が宇土に入る前からあった中世の宇土城(西岡台)と共に見ると、鶴が翼を広げているように見えるので別名「鶴の城」とも言われます。
小西行長は、関ヶ原の合戦の際、西軍として戦った為、関ヶ原の合戦の後、宇土城は肥後一国(球磨と天草を除く)の領主となった加藤清正のものとなり、城代がおかれました。
清正は、宇土城を自分の隠居所とする為に普請を行ったという記述が「肥後宇土軍記」(市指定有形文化財)の中に見えることや、昭和55年度から行われた発掘調査の結果、本丸には約2mの盛り土があり、小西時代のものはその下から出てくる事等から、今現在目にする事が出きるこの石垣は、加藤清正が積み上げさせたものだと考えられます。
石垣の積み方は打ち込みハギといわれるもので、熊本城と同じ積み方です。
ただこの石垣も見えているのは半分程度で、地面の下には地上の石垣と同じくらいの高さの石垣が埋まっています。
清正は隠居することなく慶長16年(1611年)に没し、翌慶長17年(1612年)には幕府の命令で城は壊され、この際石垣も壊されました。
さらに寛永14年(1637年)の島原の乱の後、宇土城は徹底的に壊されましたので、今ある石垣は2度の破壊をくぐり抜けた貴重な石垣と言えます。
宇土市教育委員会より
堀跡・曲輪・土塁・井戸跡・建築跡など
現在の城跡 小西行長の銅像
近辺の見所 轟水源・住吉自然公園・立岡自然公園・甲岩自然公園・網田焼の里・御輿来海岸・つつじヶ丘自然公園など
2度にも於ける石垣の破壊の後、かろうじて残された石垣と記されていますが、それでもかなり多くの石垣が残っていて驚きました。
最近城内の草刈りをされたと言う事で城跡は整然としていましたが、南国的な気候の土地で、思わぬ所に大きく育ったバナナの木がありました。訪れた方が植えられたのかな?
お勧めの季節:春:立岡自然公園の桜・つつじヶ丘自然公園の天然ツツジが有名です。初夏:住吉自然公園では紫陽花マンドリンコンサートがあります。
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