本丸: 久留米城の中枢で藩主の政治の場である。
多聞造で天守閣はなく東南隅の3層の辰巳櫓が最も壮大であった。

二ノ丸: 藩主の御殿があった郭。

三ノ丸: 有馬家過労の屋敷地などからなる郭。

外郭: 上級の家臣団の屋敷地。
御郡方・御普請方などの藩の役所も多く設けられた。

柳原: 江戸時代初期には士屋敷があったが、度々水害の被害を受けたため移転させた。
9代藩主頼徳の時、この地区を中心に「柳原亭」がつくられた。

筑前堀: 久留米城東面の第2濠は寛永8年(1631年)に、有馬豊氏と懇意であった筑前の黒田長政の設計によって掘られた為、この濠を筑前堀という。

京隈小路: 元和9年(1623年)から建設された京隈小路と延宝5年(1677年)に造られた小松原小路からなる武家屋敷地である。

洗切: 筑後川沿いの川港で町人居住地であったが、正保2年(1645年)に町人達を瀬ノ下町に移し、この地区は久留米藩の水軍方の居住地となった。

荘島小路: 城下町武家屋敷地の一つで、寛永末年〜承応初年に形成された軽輩士卒の居住地である。
北部に3か寺と西部には家老・重臣の下屋敷地が配置される。

鉄砲小路: 御先手足軽組の足軽が居住したことにより鉄砲小路とよばれた。
明治になって蛍川町と改められた。
東を寺町、西は櫛原小路にはさまれた位置にある。

明善堂: 寛政8年(1796年)に開講された久留米藩校。県立明善高等学校の前身である。

大手門: 亀屋町口橋という。久留米城に出入りする門の一つ。
格式が一番高く、藩主の参勤交代の際にはこの門が使われた。

狩塚橋: 城下町から城内に入る門の一つ。
祇園会の山車はこの橋から出入りした。

御使者屋: 久留米藩の迎賓館である。
天保2年(1831年)に片原町に建設され、明治になると三瀦県役所などの官公庁に使われ、昭和4年まで久留米市役所に利用された。
御使者やを回る築地塀や玄関口の遺構が保存されている。

長屋門: 御馬廻組で300石の知行を持つ梶村家の長屋門である。
上流武士の屋敷構えの一端を示す。

祇園社: 貞観17年(875年)に祇園牛頭天王を勧請し、創建された真言宗の寺院である。
明治初期の神仏分離令により、祇園神社となった。
毎年6月に行われた祇園会は久留米城下町の最大の祭りであった。

水天宮: 全国水天宮の総本社。
慶安3年(1650年)に社地を有馬家から寄進された。
幕末の尊王家である真木和泉守は投射の神官であった。

日輪寺: 久留米城二の丸にあったが、元和7年(1621年)に現在地へ移転建立。
臨済宗の寺院である。
境内には装飾古墳として有名な日輪寺古墳(国指定)や応永の地蔵板碑(市指定)がある。

梅林寺: 有馬家の菩提寺。
臨済宗妙心寺派。
元和7年(1621年)に丹波福知山にあった瑞厳寺を移し、兎門玄級を請じて開山として創建された。
当初、大龍寺と称したが寛永3年(1626年)に梅林寺と改称された。

日吉神社: (山王宮)
久留米城二の丸にあった東久留米村の氏神であったが、正保4年(1647年)に現在地に移った。
日吉町の町名はこの神社名による。

五穀神社: 祭神はインドの農耕神である婆珊婆演底主夜神。
寛延2年(1749年)、7代藩主有馬頼撞が江戸の神田山幡随院新知恩寺の礼誉上人の勧めで五穀豊穣を願って建立。
神宮寺として府中(御井町)の廃寺円通寺を境内に復興した。
祭りの名は「ご繁昌」という。

通町: 久留米城下町でも古くからあった町で、有馬家が久留米城に入った頃には4丁目まであったが、徐々に東に延び、10丁目の外にも町屋が建設された。
延享2年(1745年)に長町から通町と改称された。

三本松町: 昔、町の中に3本の松があったことから町の名となった。
城下町の中心の一つ。
北は通町と交わり、南は池町川を境にして、原古賀町に接する。
柳川王還沿いの町である。

札ノ辻: 三本松町(柳川王還)と通町筋が交わる地点に設けられた高札場。
領内の道程の基点である。
に鎮地図を作り上げた伊能忠敬も通過している。

柳川王還: 久留米から柳川までの直通道路。
慶長7年(1602年)頃、田中吉政によって造られた。

六ツ門: 十間屋敷と荘島小路にあったが、地名として残ったのは十間屋敷(日吉町)のみである。
番所の門が朝夕六ツ時に開閉されたことによる地名である。

寺町: 元和7年(1621年)から明暦3年(1657年)にかけて有馬家から寺地の寄進を受け創建もしくは移転して作られた寺院地区。
最も多い時は25か寺が立ち並んでいた。
久留米市教育委員会より